「忙しくって、テンパってます」
って言うのがはばかられる気がする。慣れてくればこんな忙しさなんて何の事はない日常へと変化していくのだろう、そう思う事にしよう。
さて、二月はたった二十八日しかない。締め切りとか期限が設定されている仕事に就いている人にとっては、GW、お盆、年末とならんで厄介な期間である。他はカレンダーにどんと祝日やら休日が書き込まれているので意識して仕事が出来るのだけれど、二月は年末進行、年始のあいさつ回りも済ませて気分がエアポケットになっているところに伏兵のように潜んでいるので、意外と破壊力があるのだ。
それにも関わらず、私はこの二月からさらに、ある一日だけを消し去りたいと、物心ついた時から考えていた。今日、バレンタインデーがそれだ。
それなりの容姿を持っている男性、それ以上に端麗な男性なら、そんな事は考えないのだろうが、私のような似ている有名人が「となりのトトロ(一番デカイ奴)」というような男には、二月十四日というのは屈辱的な日なのだ。
仮に女性ならば、まだ夢は見れるように思う。チョコを渡す渡さないという主導権は女性が持っているからだ。仮に思いが届かなくとも
「とりあえずシュートで終わったから良しとしよう」
と気持ちを切り替えることが出来る。しかし男はあくまで受身なので、ひたすら待たなくてはいけない。積極果敢に関係の無い女性からチョコレートを奪ったりすれば普通に窃盗だし、ごく当たり前に犯罪なのだ。勝手にチョコを渡すのは合法で、勝手にもらうのは違法というのが納得いかんが、日本の刑法ではそうなっているんだから仕方が無い。
学校などの閉鎖空間ではさらに厄介だ。傍でチョコの受け渡しが行われていたり、恋のさや当てに興じている女子を見てしまう。それがちょっと好きな女の子であったりして、さらに相手が別の男子であったりすると、その苦しみは計り知れない。
それくらいで済めばまだいい。バレンタインヒエラルキーの最下層にいる「お母さん、チョコレートって、どんな食べ物なんだい?」レベルの不細工男子には、そんな「俺の好きな○○さんが!」などという悲しみを味わうことすら出来ない。許されないのだ。
まず好きな子からもらえない、これは殆どの男性が一度は経験する道である、これはいい。次に普段別に気にしていない女子からもてんでもらえない、これは少し傷つく。さらに普段あんまりお近づきになりたくないなとこっちが思っている女子に「あんたにやるチョコはねえ!」という態度をとられる、これは非常に精神的苦痛である。極めつけに前日に先生から
「明日はバレンタインデーだけれど、校内でチョコを渡したりするのは校則違反だからしないように!」
という通達があり、それに対して女子全員から少なからぬブーイングが起こったにもかかわらず、当日自分の身の回りだけはその通達がきっちりすっきりしっかりと守られている。勘ぐるなら私だけが空気扱い、いや吸って吐かれもしない分、空気以下かもしれない、とにかくそんな瑣末な扱いを受けるのである。これはもはや屈辱を通り越して人権侵害と言っていいだろう。
学生時代の私がもっとも強く革命を望み
「わが国家の宗教は唯一神道であるから二月十四日はなんもなし!」
とか
「宗教は社会主義にとって麻薬であり、チョコレートは阿片である」
などと声高に叫びたくなる日が、今日この日だったのだ。
そう、二月十四日はそんな日「だった」
今の私は男気溢れる職場におり、仕事がらみのお義理しかチョコレートの配給は無い。家に帰れば小柄な家内が、その身の丈にあったこじんまりしたチョコレートを机の上に置いてくれていたりする。それを食べコーヒーを飲み、それなりに幸せを感じたりする。バレンタインデーはそんなごくありふれた一日になった。
以前はテレビでアイドルやスポーツ選手が
「もらったチョコは全部食べてます」
などと「発掘あるある大辞典」もびっくりの空々しい嘘をついているのを見るにつけ
「ホンマか?ホンマに食うんやな!?ああっ!?」
と我を忘れて批難していたのだが、今では
「あー、人気商売も大変だねー」
と、心の底から思えるようになった。月日というのは恐ろしいものだ。
そして今度は娘が少しずつ大きくなっている。遠からず、彼女が好意を抱く誰かの為にチョコレートを買ったり作ったりしている様を見る事になるだろう。その時はまた、渡した相手を街の裏通りでボッコボコにしたりしなくてはいけないのだろうが(するのかよ)それまではこの日はそれなりに楽しい一日である。バレンタインデーも、別にあっていいんじゃねーの?